昭和四十七年五月二十四日 朝の御理解

X御理解第七十八節 神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切なものが死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。

 神の大恩を知れば、無事達者で子孫も出来身代も出来一年まさり代まさりのおかげを受けることが出来るぞと、こういう神の機感にかのうた信心をされた方達がお徳を受けられて、一年まさり代勝りのおかげを受けられて、そういう信心をいわば残しておられる、その方達はどのような風にして天地のいわゆる神の大恩を知られたのであろうか、話を聞いただけで、ああそうかなとすぐわかったといったようなものではないと思うのです。最近、特に思うのですけれども、本当に沢山の人が助かる、お道の信心によって助かった、その中心をなされた方達の信心というか、そういう方達のどこに、そういう信心があのような御比礼とも、助かりともなったのであろうかと切に思うのです。
 ただ合楽の行き方だけを進めていけば、というだけでなくてやはり、そういうです、事実の上にたって九州のその時代時代にです、その当時信心ののいわば金字塔を築かれたといわれるような、小倉の初代桂松平先生とか久留米の石橋松次郎先生とか又は甘木の安武松太郎先生当たりの御信心というものが、どういうところに、あの御比礼が輝いたのかという事を、今日私思わせて頂いとりましたら、三人が三人共やはり、九州の三松といわれる有名な先生方なんですけれども、皆んな松の字がついとるということですね。
 ですからその三人の先生方の場合はですね、いわゆる心が大きかったということ、これはもう共通しとる。松という字は木へんに公と書いてある、木は心、公とは大きいということ、そのことに命をかけられた。三代金光様のお言葉を借りるならば、世界総氏子のこと、もうそれこそ世界中のことを祈り願われたということが、しかもそれを大恩を知られたところから大恩に報い奉るという信心がそのような信心になられたと、もう大きくなる以外いないということなんです、だから、いよいよ大きな信心を目指さなければならない。
 それにはやはりね、大恩を知らなければならない、その大恩に対して報い奉ろうという心が、神さまの心を心として神さまの心にいうなら機感にかのうた考え方、自分の助かりを、自分の助かりだけにせずに、それを世の中の沢山の人達の上に、その助かりを切実に願われた、又、切実にその大恩を感じられたからこそ、それに報いる心も出来られたんだと思うのです。なるほど大恩を知れば自ずと、その大恩に報い奉るという心も自ずと出来るであろう、ただ話を聞いてなるほどと聞いただけじゃない、為にはやはり本当に私が助からなければならない。
 昨日のお月次祭でも申しましたように、金光様の御信心は、もう有難うならせて頂けることいにつきるのだ、たとえば仏教でいうところの最高の修行といわれる雲水行と行く雲、流れる水、そういう修行をさせてもらって、いうならば成行きそのものの中にです、平然としておれれる心を作っていくのが仏教ですよね、竜安寺の石庭の吾ただ足以て知るという例えをもって昨日はお話しましたですね、だから金光様の御信心はそれから先が違うんだと、ただそれを成り行きとして、黙って受けるというだけでなくて、それを御の字をつけて頂くという頂き方が金光様の御信心なんです。不平もない不足もない、この境地だけでも素晴らしい。
 けれども例えば、その御事柄として、御物として御成り行きとしてです、それをただ受けるだけでなく、それを有難く受けるということが違うのだというような、金光様の信心のギリギリの神髄というのは、ここなんだと、だからそういう信心を大きく自分の周囲に示していこうという御理解でしたね。もう金光教の絶対性というかね、絶対なものを、ひとつ私共が頂いて、他の宗教には、もう絶対ないというところの信心をです、真に有難いというのはそういうことだと。
 ただ行く雲流れる水という淡々とした境地に違いはないですけれども、それだけではなくて、その時点でです、そのことを真に有難いという心にはです、そんならば吾唯たるを知るといったようなです、ことだけでなくて、それこそ勿体ない程におかげはとものうてくるものだと、そのおかげの世界のところが金光教の信心は違うんだと、そこからが、金光大神の道は無情の風に時をきらわすといういわゆる金光教祖独特の信心、金光教祖のいうなら大自覚とでも申しましょうか。
 そういうような信心がですね金光教の独壇場、だからそこんところを、極めていくそれでですね、それはなるほど、難しいです、ですからそこを頂かなければ、おかげは受けられんというのではなくて、いつも申しますように、これはいわゆる和賀心、どんな場合であっても、和いだだけじゃないのです、それに賀がついてくる、行く雲流れる水、吾ただ足るを知るというのは、ただ和の心で受けるというだけでしょうが、けれども金光教祖の受け方は、和の心だけではなくて賀で受けるということ、いわゆる和賀心で受けるというのは。
 だからその賀びに、真に有難いと思う心におかげがついてくるだから和賀心にならなければ、おかげが受けられんというのではなく、その和賀心を作る姿勢になっただけでおかげが受けられるということ、ですから難しいことではない、ただその姿勢を崩さずに行きさえすればよいのです。そこからまあ有難く頂けないこともありゃ、いままで有難く頂けないことが、本当に有り難いとして頂けるようになってくる、神の大恩を知ればと、そんなら、いわゆる三松といわれる九州の大先達である先生方の信心がですあのような素晴らしい御比例を打ち立てられた。
 それはどこに原因があったかというと、心が心が大きかったということにつながる、松の字につながる心が偉大であった。ですから偉大な信心ができたから偉大なおかげを受けられた。それはどういうことかというと、神の大恩を知られた、例えば桂松平先生でいうならばです、ない命を助けられなさった。四神金光さまのおかげで自分がいよいよ自殺をしょうとまで覚悟されて最後の別れにおいでられた時に四神金光さまから、そのことをみぬかれなさった。そして四神金光さまからお助けを、そのとき受けられて帰りには日向灘で支那ガパンの中に入っておるものは捨てて帰れとおっしゃつた、中には短刀がひそませてあった。
 そこを助けられた桂先生がです、七生報教を誓われた訳である。
命を助けて頂いたそこからです、その恩に感じられた、そしてその報いる心というのは、もうそれこそ桂松平七度生まれ変わって、お道の為に尽くしますというような、いわゆる報恩の生活に入られたということ、昨日もそのことを申しましたように、昨日の朝学院から電話がかかってきて西岡さんから、そして幹三郎が正奉仕をさせて頂いた、それがあまりにも堂々として見事な話ぶりであったということを、とに角親先生に喜んで頂きたいというて電話があった。
 丁度、学院生、先生方も含めて百名余りの人達がもうそれこそ、皆んな感動した、それが自分が、いわゆる無い命を助けて頂いて、そしてお道の教師を志して、そして退院のおかげを頂いた、その翌日から親先生の朝の出仕に一年五カ月毎日奉仕をさせて頂いたと、というような話をしたらしいです、最後に幹三郎の話を聞かれて講師の先生が今の大坪君の話を聞いとったら、どんなお話しの名人でもです、どんなに偉い先生でも、もうあの話の後にはお話はされんんといわれる程しの感銘だったというて電話がかかってきた。
 本当に自分が助かったということの体験程、素晴らしいことはないですしかも自分の思いというものが、いわゆる僕は信心はやめないけれども、お道の教師は僕は絶対しないというておった幹三郎がですね、もうそれこそ命を頂いた、この命を道のため尽くそうと決心した。それがね助けて頂いた時には、どげなそれこそもう本当にこの大恩は忘れませんというんですよ、誰でも桂先生の素晴らしかったことは、その助けて頂かれたことが七生報教と思われる程の、いわゆる報恩の生活にはいられたことが素晴らしいのです。
 幹三郎の場合も後の一年五カ月というその修行がです、そんなら感動を呼んだのではなかろうかと思うのです、段々それが薄らいでくるというのでなく、ますますそれが強くなってきた。ですからおかげを受けて、そのおかげに対していよいよ、その神恩に報い奉ろうとする姿勢を作るということ、そこから生まれてくる体験がいよいよ大恩がいよいよ大恩であるということが実際にわかってくると私は思う。久留米の石橋先生もそうである、天地神明に不足をいわない、それは四神さまから信心辛抱という、「信心辛抱をしておれば物事整わぬことはないぞ」とおっしゃつた。
 だからまあ場合には泣く泣くでも辛抱なさったに違いない。辛抱されておられるうちにです神様の御恩徳がわかってみえられた、辛抱しておるうちに、いわゆる金光様がおっしやつた通りに物事が成就してきた。そういうおかげを頂かれるところから、いよいよ大恩がわかってきた。その御恩に報いられる一生でおありになったということがです、子孫も続き身代も出来、一年まさりのおかげになってきたものだと私は思います。甘木においてもそうである、神の大恩をどういう風にして知られたか初めから知られたはずがない、話を聞いてなるほどと悟られたということですね。
 大地の御恩徳を聞かれたところから、それこそいままで聞いたことのない話を聞いて感動されたということですけれども、やはりそれとても本当に実感として神の大恩を知られたのは、もうとにかく神様の仰せ通りにつかまつりますということ、私はあやつり人形で神様はあやつり師だといわれた、足をあげとおっしゃれば足をあげる手をあげとおっしやれば手をあげる、そういういうならば、神様まかせの生活をですなさっておられるうちにです体験が生まれてきた、いわゆる神様のこの位の信心にかくまでのおかげをというおかげが表れてきた、だからその大恩に対して感涙しながらその大恩に報いられた一生涯でおありになったというのが安武松太郎先生の御信心でおありになると思うのです。
 だから神の大恩をただ聞いて知っただけではなくて、そんなら幹三郎が助けて頂いた、それこそ九死に一生を得たという程しのおかげを受けたというだけではなくて、おかげを受けて、その大恩に応え奉ろうとしたところに私は値打ちがあると思うえですね。それからまあだ子供なりにもです、神様のいわば大恩が除々にわかってくる、その大恩にこれから自分の一生涯をかけて、お応え申し上げようというのが今度の学院入学であったと私は思うのです。おかげを受けてその大恩にです、例えばそんならおかげを受けたという人ならもう随分ありましょう、椛目、合楽を通して、こげなおかげを頂いてから、一生涯御恩は忘れませんというた人がどのくらいあるかわありません、けれどもです後が続いてないでしょう。
 おかげを受けてそれに応え奉る修行が大事である、修行させて頂いておるからその大恩がいよいよ大恩として、いよいよもっともっと広く大きくわからして頂くことができる、できるからその大恩にいよいよお応え申しあげねばおられないということになってくる。そこからです、子孫も続き身代もでき一年まさり代まさりのおかげの受けられる徳が受けられるおとになるのです。甘木の安武先生、神様が人形使いで自分があやつり人形だと、神様がもうどんな事をおっしゃつても、それをハイと受けたまわる信心が甘木の安武先生の信心の生涯それを貫いておったものだと思われ、それが大恩をいよいよ感知された、頂かれた元だとこう思うのです。
 それが例えば右の足をあげろとおっしやるのに、左の足をあげたりするようなことでは、なかったということなんですよ、私は今朝からある方のことをお願いさせて頂いた、そしたらあの帆立て貝という貝がありますでしょう、貝のお知らせはここの御信者さんのことなんですよね、神愛会といっておった時代に、いろいろな貝でお知らせを頂いた、その貝の性格なんですが、帆立て貝というのは、いうならば風が吹いてきさえすればね、風任せになれるという人なんです、その人は、、、というようにまあ神様任せの信心をしておられる訳なんです。
 ところがです、風が吹いてこなけりや動かんという感じです、もう風が吹いてくるなら、絶対神様任せになる人、安武先生の場合と違うのはね、もういつも、その姿勢でおられたということなんです、自分は右にしたいと思う、けれども神様が左とおっしゃれば、かならず左をとる人なんです、けれども、自分で右左を決めて行く訳なんです。いわれりやそうするというのでは駄目なんです、だからもうその姿勢をね、こと神様のことであったらと、心の中にですもう絶対のものとして、頂いていくということなんです、惜しいことだと思うですだから、えずいから、ついてくるということじゃいけんんということなんです。
 それを手前おところで、自分で右左を決めてかかるというような行き方では、私は本当に、いわゆる大恩をいよいよ大恩としてわかるような体験が生まれないと思うです。今日はこの大恩を知ればというところに焦点を置いた訳ですけれども、大恩を知ること、それにはです、例えば桂先生の場合には命を助けて頂いた、その報恩の生活が御一生であったということです。だから恩に報いる生活になられたら、それこそ勿体ない程のおかげを受けられて、いよいよ神の大恩を知られたということになる、石橋先生の場合もそうです、信心辛抱さえしとけばと、それは辛抱しえないようなこともあられただろうけれども、辛抱しぬかせていただくうちに神様のおかげが表れてきた。
 そのおかげに対するところの御恩が、積み重ねられていくうちに神の大恩ということがいよいよ深く広くわかられた。というわけです安武先生の場合もそうである、それこそ神様が右向けとおっしやれば右向く左向けとおっしやれば左向かせて頂く、もうその精神を完全に作ってしもうておられた。いわれたけんするというようなもんじゃない、そこからいわば、氏子が神様任せならば、神様が氏子任せになるとおっしやるほどしの体験を積まれるところからです、いよいよ神の大恩を感じられたんじゃなかろうか、特に安武先生は天地の大恩を説いてからなら、先生の右に出られる方はなかろうと思われる程しに、天地の大恩を説きぬかれた訳ですね、自分がそれを感じて、そしてそれを伝えられた。
 その大元をなすものは神の大恩と、神様のおかげを思わなければおられん程しの、おかげから私はいよいよ神の大恩が実感的なものとして、頂かれるようになられたと思うのです。ですから神の大恩を知れば無事健康お互いのおかげのいうなら理想郷というものがです、神の大恩を知らなければいけないという事がわかります。そんならそれを知っただけでなくてです、その大恩に報いる奉るという一生懸命の信心がなされなければ、いわゆる私共が願いに願っておるところの、それこそ親の代より子代孫の代とおかげの頂ける信心。
 神の機感にかのうた氏子が少ない、そういう行き方の人が確かに少ないんじやないかと思う、神の大恩に報い奉る、いわゆる本当の意味においての神恩報謝の生活、しかも、小倉の松平先生にしても石橋先生にしても、安武先生においても、そこからいよいよ偉大な心が生まれてきた大きな心、いつも心は公のことが願われることがもう真になっておる。そこからあのように偉大なおかげを表わしなさることができたんだと思います。どうか小倉とか久留米とか甘木あたりの先生の御信心にあやからして頂きたい、そしてあのようなおかげを頂きたい、これはもう止むにや間れん思いでそれを感ずる。
 そんなら大坪総一郎お前自身がもつともっと大きくなれということ、松の字になれということ、これ以外にはないのだと、そんなら自分が大きくしようとして出来るもんじゃない、辛抱のできんところを辛抱さしてもらい、それこそ天地神明に不足をいわんという行き方、神様が右といえば右、左といえば左、その姿勢を本当に完ぺきに作っておくということ、おかげを受けてきた、その大恩に対し奉ってです、それこそ桂先生じゃないけれども七生報教の念を燃さしてもらうということ、そこから私は神の機感にかのうた信心とは、そういう信心をいうのじゃなかろうか。
 そういう信心が代々続いて、いわゆる日まさり月まさり一年勝り代勝りのおかげを受ける事ができるんだと、これわもう私共みんなが願うことですから、ですからそのおかげを頂きたい、ためには私共がまず神の大恩をしらしめて頂くための信心、そしてその大恩に報い奉る、その時点時点においてです、百の大恩を感じておるならば百のそれに報いる信心、千感じたなら千それに報いる信心、それが段々大きく示して行けれる、広く深く示していけれるおかげを願っていかねばなりませんから、金光さまの御信心にはもう限りがないということになります。
 これは今の先生方の例をとりましたが、入り口はそれぞれに違うのです、だからお互いの信心もそれぞれ違ってよいのです、けれどもその違っておりますけれども、その大恩をいよいよわからして頂くことのために、信心修行がなされなければならんということになる。本当に大恩が、おかげ頂いてと心からいいよるようであっても、それがね、報いる心になってこなければ神恩報謝の心になってこなければ、ここのところのおかげになってまいりません、もう繰り返し繰り返しそこのところの信心を自分自身に頂いていかねばならんと思うですね。      どうぞ